Top 5 Reviews in KYOTOGRAPHIE 2022

 (This article is in Japanese only.)

◉はじめに

私は、そもそも写真やカメラにまったく興味のない人生を送ってきて、30代半ばにもなって突然、写真にとりくみ始め、良くも悪くも写真や写真界の常識などまったく知らないところからいきなりプロのフォトグラファーに転向してキャリアをスタートしたケッタイなオッサンなので、当時感じたことをそのまま素直に述べた。結果、数々の無礼をどうかご容赦頂きたいと思う。以下、敬称略。

(なお、本稿の初出は2022年4月25日 19:47のnoteであるが、記事を必要に応じて改訂のうえ、Bloggerに移行した)

KYOTOGRAPHIE、日本人の写真のIQとEQを上げる最高の国際写真祭

2020年の日経新聞の報道によれば、日本製のカメラはキヤノン、ソニー、ニコンの3社だけで世界市場の8割を超す、とあり、デジタルカメラに必ず必要な画像センサーにおいてもソニーが世界シェアの過半数弱を占めるなど、カメラという製品とテクノロジーは、日本は世界的に一流どころか、むしろ市場に対して支配的な影響を及ぼしている状況といっても過言ではない。

世界シェア、日本勢首位は7品目どまり 日本経済新聞社が実施した2020年の「主要商品・サービスシェア調査」で日本企業の首位は70品目中7つだった。過半を握る品目 www.nikkei.com

しかしながら、こと写真家という観点でみたとき、日本人が海外を席巻しているという話はほとんど聞いたことがない。国内で著名な写真家はたくさんいるが、そうした知名度の高い写真家はえてして、海外ではさほど高く評価されていない。それどころか、国内のギャラリーや出版社でさえ彼らの作品に対し、プレミア感のあるプライシングを為しているとは決して言い難い。

欧米と異なり、いくら自宅に写真を飾る文化に乏しいからといっても、これでは日本人の写真家が大いにリスペクトされ、相応の経済的な対価を得て、さらなる創造性を発揮するには難しい現状にある。

写真、いやPhotographの本場といえば、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、オランダといったところだろうか。いずれも歴史ある国際的な写真賞とメディアを擁し、写真と写真家に限らず、作品とアーティストに対するリスペクトに富んでいると感じるのは私個人の僻みなのだろうか?

利害関係が一切ないのであえて言うが、これは特に戦後、日本で写真に携わってきたすべての先達の責任と結果である。写真に限らずアートを非言語コミュニケーションというが、しかし私には多くの日本人が写真をあえて日本語に留めて語っているように思われてならない。

たとえば、日本で写真を鑑賞する聖地といえば、恵比寿の東京都写真美術館である。私自身、駆け出しの頃から何度か足を運んで各種展示を観たし、これまで日本で貴重な写真展を数え切れないほど開催されてきた点には最大限の敬意を表したいが、世界的には現代アートという文脈のもと多様化している写真界とは大きくズレた、良くも悪くもドメスティックで固定観念に囚われている旧態依然とした博物館のように感じられる。

いっぽう、KYOTOGRAPHIE(正式名称「京都国際写真祭」)は「アルル国際写真フェスティバル」(正式名称はRencontres Internationales de la Photographie d' Arles、つまり「アルルにおける国際的な写真の出会い」)に刺激を受けて創立されただけのことはあって、主要な展示は有料ながらも街全体を巻き込んでインパクトの強いキービジュアルが多数、繁華街や著名ブティックに露出されたり、一部はメインでも無料で鑑賞できる展示を用意したり、あるいは多くを無料で鑑賞できる「KG+」「KG+SELECT」というサブイベントを用意することで間口を広くし、写真にまったく興味のない人々からコアな写真ファン、アートファンまでを幅広く惹きつける工夫がなされており、「閉じているけれども世界に開かれている」絶妙なバランス感覚で成立している稀有な写真祭である。

そして、その2022年の協賛企業をみてみると、主だったスポンサーには外資系企業が多い。任天堂や京セラ、KDDIなど京都と日本を代表する大企業は一件も名を連ねていない。文化庁が一部助成しているようだが、オランダ王国の名も併記されている。詳細は不明だが、構想した創立者と、それに賛同した京都の人々と、志に賛同する一部の地元企業、国境を超えた思想をもつ企業による手弁当でこの大きな写真祭を運営されていることに、心から敬意を評する。

私は毎年、熱心に鑑賞してきたファンではない。都合3回程度、観たに過ぎない。10年前から開催されてきた主催者とスタッフの皆さん、この写真祭を支えてきた愛好家からすれば、ニワカにも程がある。しかし、観るたびに私は写真家として、あるいは鑑賞者として成長できた、という実感を得られ、最近ようやく確信に変わった。

KYOTOGRAPHIEには、写真家としても鑑賞者としても、写真に対するIQやEQを劇的にアップさせる魅力と刺激がたくさん詰まっている。これほど素晴らしく、有り難い、大規模な写真イベントが他にあろうか。

KYOTOGRAPHIE創設者のお二人、ルシール・レイボーズさんと仲西祐介さんをはじめ、関係各位に対し、最大限の敬意を示したいと思い、この記事を書くことにした。

写真家なんぞクソくらえと思っていた時代

そもそも、家族を撮りたくてウエディングフォトグラファーになった私は(広告写真を除き)営業写真バンザイ、芸術ぶった写真家などクソくらえ、と思っていた時代がわりと長くあった。

はっきりいって私には写真やアートの才能などなく、随分年下の先輩後輩たちの方がずっと優れた才能の持ち主で、それは写真の才能の有無とはまったくの無関係にわかることだった。

とはいえ、ペンを持ってあれこれ読み書きしているうちに、最初は絵日記しか書けなかった子どもが徐々に工夫に富んだ文章を読んだり書いたり成長するように、何年もかけて写真でさまざまを表現するうちに、私なりの写真に対する哲学や表現術、審美眼は磨かれ、育まれていったのだろうと思う。

私のキャリアにおいてもっとも長きにわたる主要な撮影はウエディングだが、結婚式場や撮影会社とは無関係に個人で引き受けた撮影(もちろん、決して安いとは言い難い対価の仕事だ)においては、お二人の会場入りどころかその前日の準備から撮影するなど、ドキュメンタリーの要素をより強く取り入れてきたし、式場ありきの下請け撮影では到底思い至らないようなところまで様々なことを考え、サービスとして実行してきた。

さらに、地縁も血縁もない震災後の南三陸町で独立するという無謀な試みのなかで、なんとかして自分自身の写真を最大限に高く売って資金調達するというチャレンジに奔走したことがアート作品とプライシングについて最大限考える契機となった。

トドメは2016年3月、かねてから尊敬していたあるフォトグラファーとの知己を得た際「あなたのようなフォトグラファーは世界に出るべきだ」と檄を飛ばされた。これには正直面食らったが、私には生来、影響されやすいところがあるので、それ以来、世界に通用する写真とは何か、世界に通用する日本人写真家とはいかなる存在かを意識し、日々考えるようになった。

初めてのKYOTOGRAPHIE 2017

ロバート・メイプルソープ展、イサベル・ムニョス展、誉田屋源兵衛にて

KYOTOGRAPHIEを初めて鑑賞したのは2017年、ロバート・メイプルソープの写真展だった。その前年から当時ある世界的なフォトグラファーのもとで花の写真にとりくんでいた私はメイプルソープの写真集を海外から購入し、いたく感銘を受けていた。そういえば小さい頃、AIDS云々で日本でも話題になっていた気がするなあ、とかぼそい記憶を辿りながら、しかし圧倒されたのはそのオリジナルプリントのクオリティだった。

メイプルソープの花の写真はあまりにも有名すぎて、写真好きならほとんど誰でも知っているし、Web等でも気軽に鑑賞できるほどだが、しかしプリントが今もなお生き生きとした瑞々しさを保ち、鑑賞者に圧を持って訴えかけてくるエネルギーに私は落雷のごとき衝撃を感じた。

奇しくも本年、2022年のKYOTOGRAPHIEのメイン展示のひとつがアーヴィング・ペンの泣く子も黙るオリジナルヴィンテージプリントコレクションだが、その入口には、

Irving Penn: Works 1939–2007. Masterpieces from the MEP Collection 京都市美術館別館

「いい写真とは、何かしらの事実を伝え、心を揺さぶり、その写真を見る前の自分には戻れなくするものだ」――アーヴィング・ペン

という名言が掲げられている。まさにそのとおりだった。

アーティストの魂は不滅である、とよく言われるが、まさしく、そのことを体験的に教えてくれたのがこのロバート・メイプルソープの貴重なオリジナルプリントが堂々と展示されたMemento Mori展であった。

同じ会場にはイサベル・ムニョスの展示もあり、「FAMILY ALBUM」と題されたテーマにも当然関心はあって観たが、当時の私にはさほど響かなかった。いま思えば、まだまだ私は未熟だったのだろう。

2nd KYOTOGRAPHIE 2019

たまたま、知人がKG+SELECTへ出展することになったというので、応援がてら足繁くKYOTOGRAPHIEへと足を伸ばすことになった。結果的に、私の写真家としての精神的な成長において重要なターニングポイントの一つになったと思う。

アルバート・ワトソンのプリントの質の高さには度肝を抜かれたし、ベンジャミン・ミルピエの表現力の高さには舌を巻いたし、ヴェロニカ・ゲンシツカのポップでアイロニカルな表現には「こういった作品がきっと世界のアート市場で売れるのだろうな」と思ったものだし、アルベルト・コルダのファッションポートレイトにはシンプルに痺れた。あまりにもカッコよすぎた。それでもそのとき初めて、かのチェ・ゲバラのポートレートがアルベルト・コルダによるものだと知ったぐらい、私は無知だった。

Armelle Kergall's Exhibition at KG+SELECT2019

KG+SELECTではアルメル・ケルガールさんと知人夫妻の作品がずば抜けてクオリティが高く、メッセージ性にも優れていると思っていたが、案の定、その二組が鑑賞者からもっとも高く評価される結果に終わり、私の審美眼もまんざらではないな、と独りごちていた。

それでも、このときは全ての展示を観ようと思うほど関心は高くなかった。むしろ、メイン作家として日本人がかろうじて1枠、それも自傷をテーマにした作品であることに(展示を鑑賞することもなく)、日本人の写真家の地位の低さや取り上げられ方に対し、陰鬱な気持ちになっていた。今思えば、アーティストとしては未熟な態度であった。

3rd KYOTOGRAPHIE 2022

新型コロナ禍の2年、主催者の皆さんは大変な苦労をされたのだと思うが、私も個人的にそれどころではない事態に陥っていたので、はっきりいってKYOTOGRAPHIEどころではなかった。

本年は新型コロナ禍の影響もあってか、日本人写真家が多く取り上げられるようで「国際写真祭」を謳う割には、と、若干気落ちしたが、そのなかに私が尊敬して止まないフォトジャーナリストの林典子さんも出展されるとあって、俄然、観る気が起きた。

むしろ私自身、写真作家・アーティストとしての活動を強化していこうという想いが高まっており、今回ばかりは一見興味のないものも全て、オフィシャルプログラムは最低でも全部観ようと決めて、パスポートを事前購入した。

結果的に、これが正解だった。

2019年の経験上、全部のプログラムを満遍なく、じっくりと鑑賞しようと思うと3日はかかるとみてスケジューリングしていたが、突如告知される魅力的なイベントに心惹かれて、あえて平日に鑑賞する予定だったものを土曜に変更したりもした。

あいにく私にはレビューしてもらえる作品がまだなく、ポートフォリオレビューに参加できなかったのは残念だが、関連イベントの「世界報道写真展シンポジウム」や岡原功祐氏によるティーチインが行われた「blue affair上映会」など、自身の成長にとって不可欠な視点や学びを得られるイベントに出会えたことは幸いだった。

最終的にすべてを鑑賞したうえで特筆すべき展示について、個人的なトップ5をピックアップしてレビューを記すこととした。

Top 1. プリンス・ジャスィ




Prince Gyasi at ASPHODEL

KYOTOGRAPHIE 2022のメインキービジュアルに採用されているのが、プリンス・ジャスィというアフリカのビジュアルアーティストの作品だ。アフリカンならではのビビッドな色彩感覚が素晴らしいが、それにも増して素晴らしいのがそのメッセージ性である。

この色彩感覚にピンと来た人もいるかと思うが、彼は高級なデジタルカメラを購入できなかったハイスクールの頃にiPhoneで作品を創作するようになり、それによってAppleの広告に採用されるなど、まさにアフリカンドリームを体現する人物である。

展示の入り口を入ってすぐにショートフィルムがリピート再生されており、そこでは次のようなメッセージが流れている。

「カメラを買うことができなかったとき、iPhoneでもカメラと同じことができたから、自分のiPhoneを使った。」
「そして、料理と同じように、自分自身で自分の物語を語ることができるのだと気づきました。」
「どんな道具を使っても物語は作れるということを人々に伝えなければいけない。」
「私は他者によって自分たちの物語が伝えられることはさせない。」
「彼らに自分自身で自分たちの物語を伝えるのだ。」――プリンス・ジャスィ

あまりにも気高く誇り高い魂に触れて、私はときに泣きそうになりながら、すべての作品を観た。

展示を見終わって直ちに私は受付の女性に「写真集は売っていないの?」と尋ねた。なぜ、アルベルト・コルダのときのようにプリンス・ジャスィのフォトブックを用意しなかったのか、残念極まりない。

ともあれ、これまでに私が観たKYOTOGRAPHIEの主要な展示のなかでもトップクラスにエネルギッシュでパワフルな作品だった。無論、近年の高精細なカメラによる作品と比べれば像は粗いが、それすらも表現の一部に過ぎない圧倒的な説得力がある。

なお、祇園四条以外にも出町桝形商店街にて展示がなされ、こちらも非常にポップでパワフルなビジュアリゼーションを愉しめた。


 

Top 1. アーヴィング・ペン

Irving Penn: Works 1939–2007. Masterpieces from the MEP Collection 京都市美術館別館

同率一位。言わずとしれた、世界的な偉人である。私のような写真界に疎い人間ですら知っている偉大な写真家のオリジナルプリントが観られるというだけでとてつもなく凄いことだが、個人的には「マイルス・デイヴィスの手」をプリントした組写真にもっとも圧倒された。

まるでそこにマイルス・デイヴィスの手が実在するか、あるいは彫刻として存在するかのような迫力には唸った。存在しないはずの彼のトランペットがいまにも音を奏でそうな、途轍もない表現だった。

もちろんこれらはフィルム時代の撮影で、プリントもおそらく相当入念に手間暇をかけて完成させた最高品質のものだろうが、現代のデジタルフォトとインクジェットプリンタで果たしてここまでのクオリティを表現できるものかどうかを考えると、実に興味深い。

なお、展示のラストに記念でポートレートを撮影できる一角が用意されていた。こうした心憎い演出もキュレーターの遊び心、そして「写真をもっと多くの人々に楽しんでもらいたい」というメッセージが込められていて最高だった。

Top 3. 奈良原一高

日本の、特にいま現在の写真界ではさほど知名度が高いとはいえないが、主にヨーロッパで高く評価されてきた奈良原一高をフィーチャーするこのセンスが、さすがKYOTOGRAPHIEだと思った。特に構図、レンズワークなどが極めて現代的で、いかに彼の感性が時代のはるか先に進んでいたか、震撼させられる。そして、こうした素晴らしい日本人写真家を軽んじてきた日本の写真界の救いようのなさにも同時に打ちのめされる。

両足院





Top 4. ギィ・ブルダン

ファッションフォトの世界では知らぬものはいないという、知る人ぞ知る超ビッグネーム。キービジュアルに起用された写真もビジュアルインパクトが尋常でなく、凄まじい。本当に、世界は広い。というより、日本は狭い…、ものすごく…。こういう世界の写真史を彩るようなフォトグラファーの作品を数多く、毎年当たり前のように鑑賞できる機会はもはやKYOTOGRAPHIE以外になく、鑑賞費用、パスポート代が超絶安く感じられる。


Top 5. サミュエル・ボレンドルフ






サミュエル・ボレンドルフ/人魚の涙 at 琵琶湖疏水記念館、蹴上インクライン

フォトジェニックな自撮りスポットとしても人気の高い琵琶湖疏水の一角にある記念館にて、屋外で無料で鑑賞可能な展示。最初キービジュアルをWebやSNSで見たときには「杉本博司氏の海景へのカラー写真によるオマージュか?」と怪訝だったが、展示をひと目みれば、まったくの別の作品と明確にわかった。杉本博司の「海景」シリーズを引用こそすれ、海洋ゴミ、特にマイクロプラスチックのごみ問題を取り上げたフォトジャーナリズム作品である。

それどころか、今回のKYOTOGRAPHIEで「閉じていながらも開かれている」の「開かれている」部分を実現している、きわめて重要な役割を担っている作品だった。

空から降ってきた雨粒が琵琶湖へと流れこみ、淀川水系を辿って京都・大阪・神戸の水源となっていること、それらがいずれ海へと繋がっていることを考えれば誰にでもわかる。そして、このエキシビジョンが地政学的な点からKYOTOGRAPHIEでなければならない必然性、意義がはっきりと込められていた。お見事。

番外編. 10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭

10年目の節目を記念してか、昨今の世界的な女性の地位向上のための運動の一環としてケリングによる「ウーマン・イン・モーション」という企画で展示された「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」にも触れておきたい。

まずはじめに、本展は明らかに政治的思想的趣旨の濃い企画ではあるが、 私は全面的に賛同している。この人類世界はもとより平等でも公平でもないが、しかしだからといって社会に発生する格差や差別を是としたり放置することは、知性ある人間としては野蛮なことと思う。

そうした経緯からこの展示で取り上げられた女性写真家は、地蔵ゆかり、林典子、細倉真弓、稲岡亜里子、岩根愛、岡部桃、清水はるみ、鈴木麻弓、殿村任香、𠮷田多麻希の10名。個人的に高く評価したいのは林典子、岩根愛、岡部桃、清水はるみ、𠮷田多麻希の作品。

特に、 私は林典子さんの大ファンなので嬉々として鑑賞した。会場となったHOSOO GALLERYの4F、小さな家を模した展示。





ちょうどベランダが目の前にあり、そこに北朝鮮から海を挟んで日本列島を臨む光景が大きく引き伸ばされていて、北朝鮮に渡った日本人妻の方々の視線を追体験できる工夫がなされていて、沈痛な気持ちになった。素晴らしい作品そして展示だった。

おわりに

私は人混みが嫌いなので、本来はすべて平日に観るつもりだったが、偶然、素晴らしい無料イベントと出会って週末にも鑑賞した。残る展示はやや時間との戦いを強いられるので、GW前の平日に鑑賞した。

観終わった後に、あるいは鑑賞中に思わず興奮して偶然居合わせた人たちと「すごいね!」「めっちゃ良かったね!」と勢いで盛り上がってしまうのも、KYOTOGRAPHIEの常である。

生きる喜びや表現することへの勇気を与えてくれるこの素晴らしき写真祭に、一人でも多くの人が足を運んでほしい。もっと多くの方々に世界トップレベルのフォトを鑑賞していただき、その素晴らしさや真の価値、あるいはアートとの付き合い方を学んでほしい。

アートとしてのフォトグラフィ、あるいは撮影サービスそのものも、ときに、大金と思える額を払ってでも、買う価値のあるものだ。過去に遡って思い出を撮り直すことなど、地球上の誰にもできないのだから。

それにしても、これまで多くのKYOTOGRAPHIEを見逃してきたかと思うと本当に悔しいし、自分のバカさ加減が情けない。ちょっとでも興味を持った方には一つでもいいから、気になった展示を鑑賞されることをお勧めする。

毎年KYOTOGPRAPHIEを鑑賞するたびに、きっと表現者としても鑑賞者としても大きな成長を得られるに違いないし、世界と自分とのつながりにおいても大いなる気づきを得られるだろう。